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― 慈眼寺の歴史 ―

慈眼寺の歴史と大宮観音について

慈眼寺は、地元で「大宮水波田観音」として親しまれ信仰を集めてきた、千手観世音菩薩を中心とする寺院です。

もともと観音堂が本堂であり、現在の本堂は書院として使われていました。

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本尊の千手観世音菩薩は、開祖である慈覚大師円仁が謹刻したと伝えられています。

この観音堂は、かつて「蓮華寺」と称された時代から慈眼寺の中心的存在であり、

中興の祖である円海上人が再建した歴史も伝えられています。

 

水波田観音(現 大宮観音)にまつわる数々の伝説も有名です。

永禄5年(1562年)の北条勢による焼き討ちでは、

観音像が仁王門脇の柊の木に避難し、神々しい光を放ったとされます。

その後、一時岩槻の慈恩寺に移されましたが、

「霊意に叶わず」という夢のお告げにより慈眼寺に戻されたという逸話もあります。

 

他にも、観音様への信仰による奇跡的な救命や雨乞いの成功など、多くの伝説が残されており、

観音堂とその本尊は長く地域の人々に崇められてきました。

千手千眼観世音菩薩(大宮観音)について

大宮観音は、千の目で人々を見守り、

千の手で救済する「千手千眼観世音菩薩」です。

この秘仏は慈眼寺の観音堂に安置され、

12年に一度、午年の4月に「御開帳」が行われます。

 

古くから観音信仰と馬は関係が深く、

かつては馬の無病息災を祈るため、

飾り鞍を付けた馬が参拝する風習もありました。

また、慈眼寺は足立坂東三十三ヵ所観音霊場の

第32番札所として信仰されています。

​慈眼寺の歴史概略

慈眼寺昔の地図.png

慈眼寺は天長3年(826年)慈覚大師円仁によって創建されました。

観音霊場として信仰を集め、中世には岩槻太田氏の庇護を受けて繁栄しましたが、

戦国時代の永禄5年(1562年)に北条氏康による焼き討ちで焼失しました。

 

その後、江戸幕府の朱印状により所領を安堵され、

寛文11年(1671年)の円海上人による観音堂の再建を経て復興し、

円海上人は「中興の祖」とされています。

 

明治期には廃仏毀釈の影響を受けるも乗り越え、

昭和に入り鐘や本堂、山門などが再建されました。

 

平成のバブル期には主要なお堂が新築・改築され、

令和には如意輪観音像が新たに安置されました。

 

これにより、千手観音と如意輪観音という異なる性質を持つ仏が調和し、

慈眼寺はさらに強力なパワースポットとして人々を照らし導く場となっています。

詳細な歴史については、慈眼寺のパンフレットや出版物が参照可能です。

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